もうかなり日にちが経ってしまいましたが、9月19日に札幌のりんゆうホールにて日本アレンスキー協会の第2回例会を開催いたしました。
「ロシア音楽史におけるアレンスキー(2)」と題し、今回は主にアレンスキーの教育活動についての話が中心でした。アレンスキーは1882年から1895年までモスクワ音楽院で和声学その他を教えましたが、プレスマンやラフマニノフ、グリエール、ゴリデンヴェイゼルらの回想録などを基に、アレンスキーの教師像を想像し、また具体的な作品の演奏、観賞を通して影響関係の一部を考察しました。
以下、当日のテーマと、演奏曲目(演奏は会長)&CD鑑賞曲。
1.19世紀ロシア音楽史実~前回のおさらい
♪:アレンスキー、グラズノフ、タネーエフ、ラフマニノフ合作「4つの即興曲」より第4曲)
♪:ラフマニノフ「アレコ」より
2.アレンスキーの生涯
3.アレンスキーの教育活動
4.アレンスキーとラフマニノフ
4.1 ラフマニノフによる音楽院時代の回想
♪:ラフマニノフ「無言歌」
♪:アレンスキー「フゲッタ ニ短調」
♪:ラフマニノフ「フーガ ニ短調」
♪:ラフマニノフ「楽興の時 第4番」(CD)
4.2 アレンスキーからの影響 ~バッソ・オスティナート
♪:アレンスキー「バッソ・オスティナート Op.5-5」
♪:ラフマニノフ「4つの小品」より「ガボット」
♪:グリエール「バッソ・オスティナート Op.41-4」(CD)
4.3 ラフマニノフ:「幻想小曲集」作品3 より
♪:ラフマニノフ「エレジー」(Op.3-1)
♪:ラフマニノフ「道化役者」(Op.3-4)
♪:ラフマニノフ「セレナード」(Op.3-5)
これらのテーマの中で、アレンスキーとタネーエフやサフォーノフ、スクリャービンらの関係、セレナードとノクターンについて、ラフマニノフとジプシー音楽についてなどについてもお話いたしました。
当日お話したなかで、アレンスキーの息子パーヴェルと映画監督エイゼンシュテインの関係については配布資料に載せられなかったので、ここで簡単に補足させていただきます。
「戦艦ポチョムキン」などで非常に有名なロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)は、1920年代初頭のある時期、ミンスクにある神秘思想の秘密結社「薔薇十字団」に関わっていました。そこで非常に親しくしていたのが、アレンスキーの息子であり、詩人、翻訳家、東洋学者であったパーヴェル(1887-1941)です。
さらに面白いのは、日本に関心があったパーヴェルが知人から日本語の教科書を入手し、エイゼンシュテインとともに日本語の勉強を始めたということです。当時の神秘思想は東洋思想などと密接なかかわりがありますから、彼らが日本に関心を示したということは当然と言えば当然のことでした。
後にエイゼンシュテインは「モンタージュ」という映画の手法を理論化することになりますが、そのときに漢字の仕組みからヒントを得た、という話が伝わっています。つまり、アレンスキーの息子パーヴェルと共に始めた日本語の勉強からヒントを得たのです。アレンスキーがいたからこそエイゼンシュテインのモンタージュが生まれた、というのは言いすぎでしょうが、エイゼンシュテインの映画人生の中で、アレンスキーの息子パーヴェルは大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
二人はその後、秘密結社からは離れ、それぞれ自分の道を進んでいきますが、パーヴェルは10数年経ったスターリンの粛清の時期に、この時期秘密結社に関わったということで逮捕され、強制収容所送りになりました。結局そこで1941年に亡くなってしまいます。
アレンスキーと日本が関わった意外なロシア文化史の一こまですが、この辺の人間関係はいろいろ調べていくと面白そうです。また何か分かりましたら、例会やこの場でご報告いたします。
連休の中日にも関わらず、100名近い方においでいただき、またたくさんの方にお手伝いいただきました。心から感謝申し上げます。
次回は来年3月13日。ロシア歌曲について演奏を交えながらお話しする予定です。
日本アレンスキー協会 高橋 健一郎